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死ね死ねラブレター

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僕が愛した世界の全てに捧ぎます。

 

 こんにちは。
 お読み下さってありがとうございます。
 私がこうしてあなたにお手紙を送るのには理由があります。
 実は以前から、あなたにお話ししたいと思っていた事がありました。でも私は、直接言う勇気を持ち合わせていませんでした。
 そこで悩んだ挙句、手紙という形で、その思いをあなたに届けようと思い立ったのです。
 初めは妙案だと思ったのですが……しかし残念なことに、元来持つ口下手な性格が災いしてか、あなたに対しての手紙だと思うと、なかなかうまく文章が続きません。どうしたものか考えあぐねた結果、私は、一遍の小説を書くことにしました。
 その小説を、この手紙に付記します。拙い文章ですが、大して長いものでもないので、もし良かったら最後まで読んでくださると幸いです。
 途中何があっても最後まで辛抱強く読んでくだされば、私はこの手紙を書いた目的を成就させることができると信じています。
 どうか、宜しくお願いします。

1.

 『死ね死ねラブレター』 / ****

「え、今日、来ないの?」
 僕は携帯を落としかけた。白い息が飛散する。寒さも和らがない三月の初め。新宿駅東口。電話中の所在ない視線を、とりあえず月に向けている。
「うん、今日帰れるはずだったんだけど、朝にね、台風が来ちゃって。飛行機飛ばせないって言われちゃってさ。だからもう一日こっちに留まることになったの。で、今から飛行機乗ってそっちに帰るところ。今空港なの」
 はきはきと、自信のある彼女の声。三ヶ月の短期留学を終えた後とは思えない、疲れを感じさせない声。感じていないのか隠しているのか――僕には未だにそんなことすら分からない。
「ああ……そ、そうなんだ」
「うん。今晩中ずっと飛んで、明日の朝に着くみたい。飛行機の中で寝る感じだね。あ、飲み会のお金は、もう払ってあるから大丈夫だと思う」
「そっか、うん、じゃあしょうがないね。皆にはそう言っておくから」
「いや、大丈夫だよ。幹事の馬場くんに言ってあるから」
「ああ、そう」
 僕に言うより先に馬場に連絡したのか。いや、別に順番がどうだから何だという訳ではないのだが……いや、そういうことなのか。細かいことを気にするのはいけない癖だが、積み重なれば細かい事も細かくはない。
「それでさ、私のホストファミリーが凄く良い人でさ、私の研究には凄く興味を持ってくれて、先週の土曜日なんかね、」
 うん、うんと力なく返事をしながら、僕はぼんやりと、少しだけ欠けた月を見ていた。
 大学、研究、留学。彼女の話すことは、社会からすれば全て当たり前の出来事だ。僕も当たり前の出来事だと思っていた。でもその"当たり前"は僕にはすごく難しくて、だから僕は、こんな路地裏でひとり月を見ている。
 レールから外れるのは簡単だった。何も考えなければいい。そうすれば自然と周囲に押しのけられる。自分からは何もしなくてもいい。
 彼女の留学の成果を聞きながら、今見ているあの月について考える。あそこに降り立った人間が居るらしい。「人類は月面に立った」そう言うと確かに格好良い。しかし、実際に月に立ったのは数人だ。それを忘れてはならない。
 少なくとも、僕は月面には立てない。
 僕の中で重大なのは、その事実だった。
「あ、そろそろ研修に行かなきゃいけない時間だから切るね。皆がどうなってたか、あとで聞かせて?」
 彼女の言葉で我に帰る。ああうん、と心無く答えた。じゃあね、と電話を切ろうとする彼女に、あ、ちょっと待ってと声をかける。
「え、なあに?」
「あ、あのさ、いや、大したことじゃないんだけど」
「うん」
「日高さん、僕のこと好きですか?」
「あはは、何言ってるの。じゃあ、またね」
 明るくそう言われ、電話は切られた。いつもの事。いつもの事ではあるのだが、僕は、未だにちっともこれに慣れない。

 

2.

 僕は携帯をジーンズのポケットにしまい、腕時計を見る。午後六時二十分。もうそろそろ行ってもいい頃か。日高さん……日高さんは来ないのか。まあ来たとしても僕の立ち位置は変わらないけれど……では今日は誰と会話すればいいのか。そんなことを考えながら、僕は同窓会会場の飲み屋へと足を進める。
 耳を塞いで目を閉じて生きていたら、高校を卒業して一年が経っていた。そのうちに、僕は高校の奴らのことなんか忘れていたし、奴らも順調に僕のことを忘れていただろう。しかしまあ、名簿表だけは僕のことを覚えていたようだ。
 新宿の街を行く人々は、時間帯も相まって皆楽しそうだ。心にどこか余裕を持っているように思える。サラリーマンを除けば服装も華やかだ。やはり僕は少し――いやかなり――浮いているかもしれない。やはり来なければ良かったか? 早くも後悔しかける自分を、僕は必死に否定する。
 行くと決めたじゃないか。
 そう、僕は決めた。決意したのだ。少なくとも僕はここまで来た。それを、それだけを誇りに僕は足を進める。
 僕は変わるんだ。それが今日、僕が同窓会に行く理由である。この堕落した、何にも向かわない、ただ部屋で自問自答するだけの底なし沼のような生活から抜け出すための何かが――それが優しく温かい物でなくとも――得られる気がした。その可能性をまだ信じているからこそ、僕はまだ僕を捨てきれずに生きているのだった。

 そうして自分の中のちっぽけな小人を幾度も幾度も励ましているうちに、僕は飲み屋に着いた。店の前で数十人の男女が突っ立って談笑している。よく見ると、どれもこれも見知った顔だ。僕は下手な作り笑顔を浮かべながら彼らに近付く。やがてそのうちの一人が僕の存在に気付き怪訝な顔をする。そして談笑していた仲間の一人の肩を叩き、何か言いながら僕を指さす。肩を叩かれた男は僕を見て首を傾げるが、その後合点がいったような顔をし、こちらに手を振った。
「よお、鈴木三号じゃないか」
 僕は曖昧に笑いながら「よう」と返す。なんとか思い出してもらえて、僕はほっとする。しかし残念ながら、僕は彼らの名前を思い出せない。しかし確実に見覚えはあった。確かに同じクラスだった連中だ。鈴木三号とは僕のあだ名である。うちの学年には鈴木が三人居た。サッカー部の鈴木信也、成績上位者常連の鈴木祐樹、そして僕。「三人目の鈴木」が、僕の唯一のアイデンティティ。鈴木信也と鈴木祐樹が一号・二号と呼ばれることはなかったが、とにかく僕は「鈴木三号」と呼ばれていた。
「三号、すげー久しぶりじゃん。え、お前どこ行ってんだっけ?」
「いや、浪人してんのよ」
 僕はそう言い、下品にならない程度に笑う。今日のうちに何十回も繰り返すであろう受け答え。練習通りだ。
「あー、マジか。大変なのなー! まあ今日くらいはハメはずせよ、あはは」
 そう言って肩を叩く。俺は笑って返す。
 よし。よし!
 やはりだ。そんなに辛くない。何回も繰り返した脳内シミュレーションが効いている。この程度なら、顔色も変えずに対応できる。
 僕は小さくガッツポーズを作り、内心で大きく嗤う。やはりな。この程度じゃないか。僕は出来る。別にまだレールから外れてなんかいない。ここから盛り返すことができる。
 彼らは僕が来る前と寸分変わらずに、お互いの身の上話をしている。課題がしんどいだの、大学の教授が教授のくせによく遅刻してくるだの、まあそんな話。これも想定の範囲内。僕はにこにこしながらそれを聞いて過ごす。

 しばらくそうしていると、少し離れた場所から馬場の大声が聞こえてくる。
「はい皆、ちゅうもーく! そろそろ時間でーす。みんな集まったと思うので、まあ適当にお店ん中に入って下さーい」
 適当にってなんだよーなどと笑いながら、彼らはぞろぞろと中に入って行った。僕が話していた(まあ一方的に聞いていただけだけど)人々も、僕に声をかけることもなく店のほうへ進んでいく。一人になった僕は激しくあせる。そうか、このタイミングで飲みや内での席が決まってしまうんだ。誰か、仲の良かった奴を見つけないと……。
 ここで僕は二人の男を思い出した。田中と滝口。学生時代の、ほぼ唯一の友人たちだ。休み時間に話したり、移動教室に一緒に行ったこともあった。あいつらと一緒なら話もできるはずだ。なんとか、彼らを見つけないと!
 しかしいくら探しても、田中と滝口が見つからない。遅刻? それとももう店に入ってしまったのか? いや、でも僕に声くらいかけてくれるはずだ……。おろおろしているうちに皆は店に入ってしまい、僕はほとんど最後尾になってしまう。全員入ったか確認するために店内から顔を覗かせ馬場が、そんな僕に気付く。
「おお、鈴木三号か。今日来れたんだな。で、そんなとこで何やってんだよ。さっさと店入ろうぜ」
 手をひらひらさせ、早く入るように促す。
「あ、ああ。あれ、あのさ、田中とか滝口とかって、もう店ん中入った?」
 自分の口の端がひくついているのが分かる。「気にしていないふり」が壊滅的に下手だ。自己嫌悪。そんな僕に気付いているのかいないのか、馬場はなんてことの無いかのように言った。
「ああ、田中と滝口ね。あいつら、今二人で旅行に行ってて来れないんだってさ、二人じゃなくて、平井も入れて三人だったかな」
 がらん、と、何かが崩れる音がした。
 旅行?
 あいつらが……旅行。聞いてないぞ。聞いてないと言う事は、知らされてないということで、それはつまり、田中と滝口は、僕のことを……思考はそれで十分だった。
 虫を噛みつぶしたような嫌な感触が、体中を掛けめぐる。
 僕は今、自分がどんな顔をしているのか分からない。制御が、そこまで及んでいない。
「だからあいつらの心配しなくていいよ。いいから店入れって」
 馬場の言葉に促されるように、僕は静かに店内に足を踏み入れた。冷静になって考えると、ここで何か適当な事を言って逃げ帰ることもできただろう。しかし当時の僕には、そんな判断をする余裕すら無かった。じわじわと黒い霧が体内を浸食する。これは駄目だ。今日は無理だ。それを確信しているのに、それは明らかなのに、逃げる判断すらできない。
 昨日までの脳内シミュレーションも、考えてきた反応パターンも全て一気に忘却して、青ざめた顔を隠すことすらできず、僕は飲み会会場に歩を進めた。

 

3.

 店の中で、僕は独りで座っていた。数十人が騒いでいる店内の、隅のテーブル。遅れてくる人が三人ほど居るそうで、それは空席が三つできることを示していて、つまり僕はその空席たちと相席だった。
「えっとお前は――そうだ、鈴木三号! 久しぶりだな! 今どこ行ってんの?」
 最初のうちは隣のテーブルの奴らは少なからず話しかけてきた。いや、「話しかけてくれた」と言うべきなのだろうか。しかし何を言われても今の僕は「浪人してる」と俯きがちに応えることしかできなかった。やがて奴らも「あーそっか」と返事をするだけで、すぐにテーブル内での会話に戻る。浪人という答えにどう返していいか分からないというのも多少はあるだろうが、それよりも僕の雰囲気に耐えきれなかったのだろう。僕でもそれくらい分かる。
 それでも飲み会が始まって一時間ほど経った今でも、数分に一回くらいペースで僕に話しかけてくるのは、彼らなりの優しさなのだろうか。しかし僕は、奴らが後で僕の陰口を叩くのを知っている。そう思うのも無理はない。数年前、僕がまだ高校生の肩書を持っていた頃、僕の居るクラスで男子生徒限定の飲み会が催された。その飲み会に、何故か僕は呼ばれて行ったのだが、異性の目が届かない奴らの言動は教室のそれとは大きく乖離しているという事実をそこで知ることになった。「あいつは顔は悪いが良い身体をしているから抱ける」「あいつとヤるくらいなら三万は貰わないと無理」普段は女子の前で爽やかに作り笑顔している連中の本音がそこにはあった。
 だから僕は、彼らに表面上気遣われても、特に感謝することはない。むしろ無視してくれたほうが気持ちが良いくらいだ。とは言え、濁った本音を持っているのは彼らだけではないだろうから……つまり僕は、気遣いそのものを拒絶しているのかもしれない。内心どう思っているのかを知っている奴らに、その上で優しさなんてかけられてもね。それが、僕の正直な気持ちだった。
 お前らなんか、信用してやるかよ。そんな事を考えながらも、身体を少々斜めに向けてなんとなく隣の机の会話に入っているフリをしていた僕の耳に、遠くから聞き覚えのある名前が飛び込んできた。
「あれ、そういえば今日、日高は来てねーの?」
 日高さん。僕は思わず顔を上げる。声の主は、分からない。するとどこからか馬場の返答が響く。
「あー、日高なら今日来れないってさ。短期留学が長引いたーとかそんなんで」
「へぇー……」
 声の主は少し落ち込んだように感じられた。すぐさま声の主は「なんだよ、お前日高が居なくて寂しいのかよー」と煽られ、部屋全体にどっと大きな笑いが起きた。
「それにしてもすげえな。短期留学って……まだ一年だろ?」
「N大医学部は、まあ、特殊だろ。なんか、お近づきになれないまま遠くに行っちまった感じだなあ」
「高校の頃から、日高は特別ってかんじだったもんな」
 僕の隣のテーブルの連中も、口々に日高さんのことを語った。しかし、その中で僕の名前が出てくることはない。僕と日高さんの関係を知っているものは居ないらしい。当然と言えば当然だ。僕と日高さんが付き合っている事など、奴らが知るはずもない。

 

4.

 声をかけたのは僕のほうからだった。一年前の三月。僕は日高さんを駅前の喫茶店に呼び出した。その時彼女は既にN大医学部への進学を決めていて、僕はどこにも行くあてのない宙ぶらりんの状態だった。しかしその時の僕にはまだ、一縷の望みが残っていた。「国立後期試験」。それは普通の試験に比べれば非常に狭き門なのだが……僕には微かな勝算があった。そもそも僕の今までの敗因は、学力の問題ではない。学力に関しては、僕は合格に値する。少なくともその時の僕はそう信じていた。では問題が何処にあるのかと言えば、精神面にあると、当時は本気でそう思っていた。
 そしてその精神面の問題の根底にあるのは、日高さん。数年前からずっと見上げてきた、高嶺の花。絶対に釣り合わない人だと分かっていたから今まで目も合わせなかった。何度もこのまま忘れようと思った。しかし、心の何処かで彼女を諦めきれない。それが僕の心のわだかまりとなっているのだった。
 つまり、その心のわだかまりさえ取り除いてしまえば、僕にも勝算が在る。それが当時の僕の考え。だから僕は日高さんを呼び出した。完全に諦めるために。邪念を振りほどき、後期試験に、学業に集中するために。つまり僕は自分から呼び出しておいてその実、日高さんと付き合えるなどとは微塵も考えていなかったのだ。だから、日高さんの返答は、僕を心底驚かせた。
「いいよ、付き合ってみようか」
 ミルクティーの底に沈んだシロップをストローでかき混ぜながら、彼女はそう言った。カラカラと氷が踊る音が響くなか、僕は言葉を失う。
「どうしたの?」
 日高さんにそう言われて僕は慌てて言葉を紡ぐ。
「あ、え、えっと、その、あ、本当に、いいの?」
「そりゃあ本当だよ。こんな所で嘘つくわけないじゃない。付き合ってみましょう」
 そう言うと彼女はストローを咥えた。
 その時の僕は、どんな事を考えたのかよく覚えていないけど、まず最初は、嬉しいとか、そういう感情は湧いてこなかったように思う。ただ、ひたすらに体内に広がる驚き。あまりに予想外。玄関のドアを開けたら月面に繋がっていて、どうやって足を進めればいいのかも分からないような感覚に、僕は陥った。
 そしてしばらくして、自分の心臓がどくどくどくと鼓動しているのを自覚した時、足元からゆっくりと喜びが湧きあがってくるのを感じた。それが全身に広がると、頬の筋肉が無意識のうちに弛緩する。僕は肘をつき、手で顔を覆う。
 日高さんが…日高さんが僕を認めてくれた。僕のことなんて認識すらしていないと思っていたけど、そんなことはなかった。僕はちゃんと、彼女の目に映っていた。自分の存在を肯定されたような気がして、それがとても、嬉しかった。
 いつまでも黙っている訳にはいかない。そう思い僕が何か言おうとした時、日高さんはバッグから携帯を取りだした。
「あ、ごめん鈴木くん。ちょっと大学の人に呼ばれたから行ってくるね」
 そう言うと彼女はそそくさと荷物をまとめ始める。「え、えっと」せっかく付き合うのだから何処かに出掛ける約束でもしよう――そう言おうとしている僕などおかまいなしで、彼女は小銭をテーブルに置くと、携帯をいじりながらさっさと店を出て行った。

 その時に感じた違和感を、僕は湧きあがる喜びで無意識のうちに押さえつけていたのかもしれない。しかしそれ以来、僕は何かにつけて、似たような違和感を覚えることになる。この一年、日高さんと僕がした会う約束は、彼女にとって他の出来事よりも優先されることはなく、ふいの用事によって多くが変更された。また、たまに話をすると「私来週から短期留学することにしたの」などと新しい事実を聞かされる。そしてそれらは、それを決める段階で僕の耳に届くことはない。それらは全て"決まった"段階で聞かされるのだ。それが僕には、たまらなく寂しかった。別れ際に、こちらを見ずに手帳に目を落とし今後の予定を確認しながら立ち去るのも、たまらなく、寂しかった。

5.

 そして今日、この飲み会に日高さんが来れないという話も、僕が自分から連絡して初めて知った。周囲の連中が日高さんのことを話しているのでそんな事を思い出してしまう。しかし奴らの会話は、N大医学部は凄いなーとか、日高は話しかけたかったけど何となく話しかけられなかったよーとか、そんな浅い事柄ばかりだった。まあ、女性が居ない場所ではもっと下世話な会話もするのかもしれないが……そう考えて周囲を睨む。ああ、俺は何をやってるんだ。自己嫌悪。「何かを変えるためにここに来た」? 何で馬鹿なんだ。こんな奴らと飲んで、何かを得られる訳がないじゃないか。根本にあるのは、やはり、日高さん。今日は日高さんが来ないと分かった時点で帰るべきだったのだ。
 もう今日は何も得られない。そう確信して僕は、少しだけ残っていたビールを飲み干す。何でもいい。何か言い訳をしてこの場を抜けよう。ここに居ても嫌な気分になるだけだ。そう思い、僕が席を立ちかけた時、遠くから馬場の大きな声が聞こえてきた。
「おー! みんな、杉下と倉来が来たぞー」
 その声に委縮した僕はつい腰をまた降ろしてしまう。杉下と倉来? 記憶の中からなんとか二人を探り当てる。ああ、確かクラスで噂になっていたカップルじゃなかったか。杉下は相手を選ばず会話をする奴だったので、僕も何度か話したことがある。とはいえ杉下が気さくな男だとかそういう訳ではなく、どんな時でも自分の話をする男というだけの話だ。
 遅れてきた二人は当然、座る者の居なかった空席――つまり、僕の前の席に座ることとなる。杉下は、妙に明るい色に染めた中途半端な長髪を揺らしながら大股でこちらに歩いてくる。白い上着をだらしなく着こなす身だしなみは、ホストを思わせる。ホストなんて、テレビでしか見たことないけど。
 対して倉来さんは、高校時代と変わらず清楚ないでたちだ。黒髪を肩くらいまで伸ばし、前髪をピンで止めていて、ノンフレームの細い眼鏡をかけている。落ち着いた色の地味な服。そして高校時代同様、どこか視線が下のほうを向いている。

「おー三号、久しぶりぃ」
 杉下は少しおどけたようにそう言い、どっかと座った。倉来さんもその隣に黙って座る。僕は内心ため息をつく。"今、浪人してるんだよ"あの台詞をまた吐かなければならないのか。心の中で作り笑顔の練習をしていると、杉下の口から予想外の台詞が飛び出した。
「いやー疲れたわ、さっきまでCプロの課題に追われててさ、再帰アルゴリズムがループしちゃって止まるねぇのよ。つーか知ってる? 再帰アルゴリズム」
「……え?」
 僕は思わず聞き返してしまう。Cプロの課題? こいつ、一年ぶりに会った友人と身の上話もせずにC言語の話をしようというか?
「ああゴメ、知らなかった? 再帰アルゴリズムっていうのはぁ、まぁCプロの中じゃかなり初歩的なアレなんだけどさぁ……」
 僕の心境を鑑みる事すらなく、彼は自ら課題とやらについて語りだした。
「まあ、つってもjavaでいう――と同じなんだけどな。……あっ、――っていうのは初歩的――の一種でぇ……」
 僕は呆気にとられた。一年ぶりで新鮮なのもあるが……こいつは凄いな。完全に、自分の話しかしてこない。こちらの情報なんて聞く素振りすら。興味が無いのだろう。それはまあ、今日の僕に限って言えば、ありがたいことではあるのだけど……。しかしもしも毎日こんな調子で話されては、流石に辟易してしまうだろう。とは言え、こいつは相手が辟易してもお構いなしどころか気付かないのだろうが。
「つってもマクロ関数を多用すればフィールドの差で逆に問題出ちゃうんだよねぇ」
 この男は……大学に入って誰かに指摘されたりしなかったのだろうか。適当に話を聞き流しながら、僕は杉下の人生を思った。しかし、よく考えれば高校を出るまでずっとこの調子だった男だ。大学に一年通ったくらいで何か変わるはずも無いか。でも、周囲から人が居なくなるんじゃないか……? そこに至って、僕は杉下の隣の女性に目を移す。倉来さん。枝豆を申し訳程度につまみながら、うつむきがちに黙って杉下の話を聞いている。この人は何を考えて杉下と一緒に居るのだろう。
「倉来……さんは、最近どう? 元気ですか?」
 杉下の話を遮り、僕は唐突に話しかけると、倉来さんはびくっとして顔を上げる。
「えっ、あ、えっと、うん、あ、元気だよー、あはは」
 黙ってはいるが、話しかければ明るく振舞ってみせる。それが倉来さんだった。高校時代、休み時間に一人で居る事が多かった倉来さん。いわゆる「本の虫」を体現したような生徒で、一見すると秀才のようだけど、三年という期間はやはり長い。倉来さんがどうやら秀才という訳ではないという事は、クラス内の公然の秘密であった。そんな彼女がある日、満面の笑みで教室に入ってきた。初めは皆何が起こったのか分からなかったが、それがつまり、彼女が杉下と付き合い始めた日だったのだ。それ以降の倉来さんのことを僕はよく知らなかったが、おそらく楽しくやっているのだろうと思っていた。そして倉来さんが変わったように、杉下も変わっていくのかもしれない――なんとなくそんな風に考えていたものだった。
 しかし見たところ、杉下は一年経った今も何も変わっていないようだ、彼は持ちあげたグラスをどんと置くと、僕と倉来さんの会話など無かったかのように、プログラミングの話を再開した。
「だからさ、いわゆる――っていうのはOSによって――な訳で、だから環境依存の問題を考えられないようじゃ駄目なんだよねぇ」
 この男は、僕に一体何を主張したいのだろう。考えるだけ無駄な気がして、僕は杉下について考えるのをやめた。むしろ興味があるのは倉来さんの方。彼女は杉下の話をどんな心持で聞いているのか? 僕はグラスに微かに残ったビールを飲み干すフリをして、倉来さんの顔色を窺う。
 そこにあった倉来さんの顔は――
 ひどく、つまらなそうだった。
 高校時代、一人で本を読んでいるときのそれと、何ら変わりの無い代物。
 そんな倉来さんの顔を見た僕は、ふいに、あることに気付いてしまった。
 倉来さんは、僕と同じだ。
 僕も今、こんな顔をしてるんじゃないのか。

 その思考に至った瞬間、僕の脳裏にある「計画」が浮かんだ。それはあまりに滑稽で非現実的なものだったけれど……しかし、現状を打開するのにはうってつけの「計画」だった。
「―――――――――」
 僕はもはや杉下の話などに聞く耳を持たず、自らの「計画」がどれだけ現実的なものか、脳内で勘定した。これなら……いける、気がする。これをすれば、僕もこんな生活も終われるんじゃないか。期待は確信に変わる。いける。これならいける、はずだ。僕は根拠もなく、その「計画」にのめり込んで行った。

 そうしてそのまま飲み会が終わるまで僕は独りで「計画」を反芻して過ごした。ああ、今日は来て良かった。別れ際、二次会へ行く人と行かない人に分かれ、行かない人は散り散りになって駅へと消える。僕はその中から倉来さんを探し出し、声をかけた。
「倉来さん」
 彼女は驚いたような怯えたような顔でこちらを向く。僕はそんな態度はおかまいなしに、にやりと笑い、おそらく自分にしか分からないであろう台詞を吐いた。
「倉来さん、今日はありがとう」

 

6.

 僕が最寄りの田舎駅に降り立ったときには、既に午前零時を廻っていた。人気の無いホームで空を見上げる。月は、もう見えない。二つある改札のうち、家に近い方は深夜帯のため封鎖されていて、僕は普段使っていない改札から出なければならなかった。しかし別に、今日に限っては何の問題もない。このまま家に帰ろうなどとは思っていないからだ。
 ホームを少し歩いて、予想以上に酔っている自分に気付いた僕は、ホームの途中にある自動販売機でマックスコーヒーを買い、ベンチに腰かけた。缶を頬に当てて少し暖をとった後、ゆっくりとコーヒーを胃に流し込む。マックスコーヒーは、いつ飲んでもひたすらに甘い。甘さに押されて美味いも不味いもよく分からない。缶コーヒーは不味いとよく言われるけれど、そもそも僕は普通のコーヒーを知らない。だから別に、何でも良かった。だけどこのコーヒーとは呼べないだろうシロモノは、なんだか僕に合っている気がして、だから僕は好きでもないのに愛飲している。
 マックスコーヒーにより体内のアルコールが影をひそめるのを体感しながら、僕は「計画」について考える。必要な物は何か。適切な時間はいつか。そして頭の中で手順を辿り、成功する可能性を査定する。自己判断では、十分に成功する……と思う。そもそも別にそんなに複雑な「計画」ではない。落ちつけば簡単に為せるだろう。とはいえ、何も為したことのない僕が言っても説得力はないけれど……自分の思考に説得力を感じられるようになるためにも、この「計画」だけは成し遂げなければならない。空になったマックスコーヒーの缶をゴミ箱に投げ捨て、僕は駅を後にした。

 まずは、必要なものを揃えなければ。そのために最初に向かったのは、駅前の二十四時間営業の百円ショップ。田舎町にそぐわない無機質な光にくらくらしながらも、僕は客の居ない店内を物色する。それは案外すぐ見つかった。「お徳用! 硬線ニッパー」。別にお徳用でなくても良いのだが……他に無いのだから仕方がない。百円ショップの「お徳用!」の耐久性に鑑みて、念のため三本買っておいた。

 店を出た僕は、再び襲ってくる寒さを堪えながらさっき考えた手順を思い出す。次はえっと……工事現場を探さなければならない。確か二つ目の曲がり角を曲がったところに、建設中のマンションがあった。記憶を頼りに夜道を歩いていく。マックスコーヒーと寒さにより酔いが完全に醒めた僕は、すんなりと工事現場に辿りついた。一階の半分くらいの高さまでしか出来てない造りかけのそのマンションは、どちらかと言うと壊れかけに見える。
 僕はそのマンションの前で立ち止まり、念のためそれとなく周囲を確認するが……もちろん人など居ない。それでも人に見つかった場合の言い訳のため、携帯電話のディスプレイにメール作成画面を表示させ、取り出しやすいジーパンのポケットに入れておく。そうして、目を細めて暗がりの中のマンションの手前を注視すると……予想通りだ。僕はにっと笑う。工事現場に人が入れないように、黒・黄の縞模様の化学繊維ロープで敷地を囲ってあった。僕は手を伸ばしロープを触る。思ったより硬い。これは、三本買っておいて正解だったな。そう思いながら僕はニッパーを取りだす。そしてぎちぎちと感触を確かめながら、ニッパーにロープを噛ませた。流石に業務用のロープは強い。しかし繊維のいくつかが切れる感触はした。少しでも切れるのなら十分だ。僕は何度もニッパーを持ちなおし、少しずつロープを傷つける。それを五分ほど繰り返し、ロープはついに完全に切断された。ニッパーは歯こぼれが激しく、もう使えそうにない。やはり三本買っておいて、良かった。僕は新品のニッパーを取りだし、今切断した場所から一メートルほど離れた部分を同様に切断した。なんだ、思ったより簡単に為せるじゃないか。得られた一メートル弱のロープをバッグに入れ、僕は一応周囲を警戒しつつ、工事現場を立ち去った。

 さてあとは、メールを打つだけだ。駅まで歩いて戻りながら、携帯の文面を考える。あくまで自然に振舞わなければいけない。とはいえ、日高さんにメールをする時はいつも緊張しているけど。僕は頭をひねり何とか内容をまとめると、適当なコンビニの前で立ち止まり、メールを打った。

>こんばんは。鈴木です。
>今はまだ飛行機の中だろうから、このメールを見る時にはもう朝かな?
>明日の朝、○○駅までお迎えに行こうかと思います。
>荷物がたくさんあるだろうから、それを持つお手伝いでもできたらな、と思ってメールしました。
>このメールに気付いたら、○○駅にいつ着くか教えてくれると嬉しいです。

 あまりの他人行儀さに、自分で笑ってしまう。それに、何故僕はこんなにへりくだっているのだ。まあ、それはいつもの事だけど。僕はひとり苦笑しながら、送信ボタンを押した。

 さて、この後はどうしたものか。家に帰るのは、なんだか面倒だ。朝までどこかで時間を潰そう。特にやることも無いから暇だが……適当な文庫本でも買って、ファミレスに居座るか。そう思い僕はコンビニに足を踏み入れる。しかし僕の目線は、書籍コーナーに辿りつく前に文具コーナーに引きつけられた。そこにあったのは、便箋だった。
 便箋を見て、僕は妙な思いつきをする。これからファミレスで、「手紙」を書いてはどうか。それは、宛先のない手紙。誰に送るでもなく、ただ、手紙を書く。深夜のファミレスですることとしては、なかなかオツなんじゃないか。僕は自分の最高の思いつきにニヤニヤしてしまう。そして迷うことなく便箋と封筒、そしてボールペンを買いそろえ、非常にほっこりした気分でコンビニを出た。

 

7.

 日高さんからメールが返ってきたのは、午前六時を回ってからだった。空が明るくなった久しい。その時の僕は、ファミレスの一番奥の席で頬杖をつき、空のコップを見つめていた。目の前には、乱雑に置かれた紙の束。ファミレスに入った直後から書き続けた「手紙」である。それは誰に宛てた物でもないが、この世の全てに向けた物だった。意気揚々と書き始めた手紙はあっという間に二十枚を超え、そろそろ締めくくろうと思った所で筆が止まった。最後の文章が思いつかないのだ。僕は皆に何が言いたいのか、その根源は、僕の中でもまだ不明瞭だった。
 そんな時に来た日高さんからの返信。僕はすがるような気持ちでディスプレイを見る。

>おはよう。今、日本に着きました。
>お迎えに来てくれるのなら有難いけど、私そんなに荷物持ってないよ。
>荷物のほとんどは家に宅急便で送ったの。
>○○駅に着くとしたら七時くらいだと思うけど、
>無理して来なくても良いよ。

 いつも通りの、簡潔で、正確な、冷たい文章。おそらくこれが彼女の「素」なのだろうが……それを受け止める体力は、今の僕には無い。僕は携帯を閉じると、長らく止まっていた書きかけの手紙に、最後の文章を付けくわえた。

<僕はあなたたち全員を、絶対に_____。>

 そうして書き終わった手紙を封筒に詰め、便箋をテーブルに置きっぱなしにして、僕は店を出た。

 

8.

 駅に着いた僕は時計を見る。午前六時五十分。そろそろ日高さんが来る頃だ。彼女は、一体どんな服を着てくるのだろうか。お気に入りのいつもの白いセーターか。それとも最近買ったと言っていた薄いピンク色のチュニックか。とは言え、僕はチュニックとやらがどんな物か知らないので着てこられても分からない。そんな事を考えながら、僕は自分の精神が高揚していることに気付いた。
 しばらくして。所在無くぼうっと突っ立っている僕の背後から、聞きなれた声がした。
「あ、鈴木くーん」
 明るい声だった。僕は即座に振りかえる。日高さんが、こちらに歩きながら小さく手を振っていた。僕と目が合うと、彼女はにっこりと、笑う。
 その笑顔に、僕は後ろからどんっと押されたかのような衝撃を味わった。今まで考えていた服装のことなんて、微塵も脳内に残っていない。それくらい、その笑顔は、まぶしかった。
「ありがとう、来てくれたんだね。といっても、荷物これだけしか無いんだけど」
 彼女は肩にかけている小さいバッグを少し持ち上げた。
「いや、良いんだよ」
 ただ、君に会いたかっただけなんだから。流石に気恥かしくて、口に出してそうは言えなかった。しかし、本当に心の底からそう思ったことを、僕はここに告白しておく。
「長旅お疲れ様。疲れてない?」
「ううん、飛行機の中でいっぱい寝たから大丈夫だよ」
「そっか。じゃあ、行こうか」
「うん」
 なんてことない会話だ。なんてことない会話なのだが……僕には何故か、とても愛らしい物に感じられた。。

 日高さんの家は、駅から二十分くらい。僕らはその家路を、ゆっくりゆっくりと歩いていった。左手に土手が広がっている、舗装なんかされていない田舎道。やたらと道幅だけは広いが、この時間帯では車はおろか人すら通らない。動いているのは風にゆられる雑草くらいだ。近くに高い建物は無く、ひんやりとした空間がどこまでも広がっている。
 そんなありきたりな田舎道の上で、僕らは他愛のない話をした。駅前に洒落たパスタ屋さんができたこと。マックスコーヒーが東京でも売られるようになったこと。行きつけのビデオレンタル屋がビデオを置かなくなり、DVDに完全移行したこと。ホームステイ先の飼い犬の顔が、高校の国語教師にそっくりだったこと。中国人だと勘違いされ、中国語で話しかけられたこと。僕らは相手の話を興味深く聞き、大いに笑い、そしてまた別の他愛のない話をした。それらは特に意識せずとも、ぽんぽんと次々に脳内に浮かんだ。他の人と会話する時のような事前準備は、必要なかった。
 しばらくして、会話が途切れた瞬間、ふと、彼女が言った。
「今日は、空が青いねー」
 言われて初めて、僕は空を見た。雲ひとつない快晴。青い絵の具をとかした水をぶちまけたような、貼りついた青さだった。今までだって視界に入っていたはずなのだが……僕はあらためて認識したその空の青さに圧倒され、言葉を失う。二人の間に沈黙が流れる。しかしそれは、居心地の悪いものではなかった。飲み会の席ではあんなに恐れた沈黙を、僕は自然に受け止めていた。
 しばらく黙って歩いていると、日高さんは急に立ち止まった。そしてその場にしゃがみ込む。
「ど、どうしたの? 具合悪くなった?」
 慌てて声をあげる僕に、彼女は首をふって答える。
「ううん、違くて、ほら、これ」
 こちらに背中を向けて、彼女は道路脇を指さす。雑草に包まれたその場所を注視すると、そこには一本のつくしが生えていた。
「まだ寒いのに、もう生えてるんだね。頑張り屋さんだなあ」
 そう言うと、おもむろに携帯を取り出し、それをつくしに向けた。
 そんな彼女のうなじを眺めているうちに、昨日の夜、あの倉来さんの表情を見た時の感情が、再び噴出した。「計画」。やるなら、今だ。くりくりと動く日高さんの後頭部。彼女はつくしと撮ろうと夢中になっている。僕は、昨日隣のテーブルに居た連中を思い出す。男子飲み会の時のやつらの言動を思い出す。昨日、滝口と田中が来なかったことを思い出す。馬場の眩しさを思いだす。倉来さんの俯き加減を思い出す。三号と呼ばれていた自分を思い出す。
 思考が回る。ぐるぐるぐると吐き気がする。大事なのは何か。僕にとって、最も大事なのは? 空の、青さだろうか、それとも。それとも? 僕の根底にあるのはあの、宛名のない手紙だったはず。あの手紙の最後。あの手紙の最後に何と書いた? 僕は。僕はあなたたち全員を、絶対に。

<絶対に、_____。>

 僕はそっと、彼女の首に、手をまわした。

 

9.

 首にまわした僕の両手には、工事現場から拝借した黄色と黒のロープが握られている。彼女がそれを知覚するよりも先に、僕はロープを彼女の首に押し付け、力いっぱい両手を引き上げた。彼女の首が、ぐううと音を鳴らして圧迫される。まるでゴムみたいな感触が、僕の手に伝わってくる。それでも僕は、手を緩めない。彼女は両手で自分の首に触れロープを外そうと指を動かしながら、ゆっくりと、おそるおそるこちらに振り向いた。その顔は、僕が今までに見たことのないものだった。目は最大限に見開かれ、瞳には恐怖と驚愕が隠されもせず浮かんでいる。唇はがくがくと震え、そこから漏れた唾が糸を引いていた。ああ、せっかくの顔立ちが台無しだ。彼女は足をばたつかせるが、正確な判断ができなくなっているのだろう、足がちゃんと地に付くことはない。手の指は、なんとか首とロープの間に潜り込もうと必死に動いているが、首の皮膚ははがれるだけでこちらも大した成果はない。紫色に染まってきた唇が、何か言おうと動いているように思えた。しかし僕にはそれを聞いてやるつもりはない。お構いなしに、更に手を引き上げる。ぐぅぅと首が音をあげる。彼女の瞳は苦痛と恐怖に押しつぶされ、唾だけでなく涙を拭き出る。焦点はもう僕に合っていない。今の彼女には、何が見えているのだろうか。少し気になるが、しかしそれを確かめる手立てはない。彼女の顔はどす黒く充血し、両手の動きは止まり、足も引きつけを起こしたようにがくがくと震えている。終わりが近いな。僕がそう思った瞬間。彼女の体から全身の力が抜けた。がくっと、操り人形のように首がだらしなく下がる。僕は彼女がもう息を引き返さないことを確認すると、そっとロープから手を外した。どしゃりと崩れる彼女。僕はそれを見下ろし、鼓動の高鳴りが収まるまで、ただそこに突っ立っていた。そして少し気分が落ち着いてくると、僕は路上に放置していた自分のバッグを手にとり、とぼとぼとその場を立ち去った。そしてそれ以降、僕が青空を仰ぐことは、二度となかった。

 

10.

 そんな妄想が一瞬僕の脳裏に浮かぶ。それは此処に至るまで何度も何度も想像したものであったが、この青空の下で考えると、とても現実的なものとは思えない。
 現に、彼女の首にまわした僕の手には、ロープは握られていなかった。
 僕はそのまま、彼女を強く抱きしめる。
「ちょ、ど、どうしたの急に」
 彼女は慌てて後ろから覆いかぶさる僕を振りほどこうとするが、僕はそれを許さない。
「しばらく、こうさせてくれないかな」
 彼女は照れたように笑う。
「恥ずかしい奴だね、鈴木くんは」
 そして僕らは、しばらくの間、そうしていた。彼女の背中は、予想以上に小さかった。この背中で、彼女は莫大な数の攻撃を受けなければならないのだろう。僕は目をつむる。昨日確信した。この世は、明るくなんかない。隣のテーブルに居た奴ら、あれはこの世界の「普通」だ。この世界をこれ以上美しいと見なすことはできない。それは事実だ。だが、だからと言って僕がすべきことは、自分を守ることではない。この背中。この背中の小ささを知った今、僕は自分に向けられた攻撃など、気にしてはいられなくなった。
 倉来さん。あの人のつまらなそうな顔。僕はあの顔と自分を重ねていたが……それは間違いだった。倉来さんと僕とでは立場が違う。僕には日高さんが居る。つまらなそうな顔など、している場合ではないのだ。
「日高さん、ひとつ聞きたいんだけど」
 僕はぼそりと声を発する。
「ん、なあに?」
「日高さんは今、幸せですか?」
「んー。うん、幸せだよ」
 それを聞いて僕は、今までに感じたことのない程の安堵感に包まれた。
 日高さんが、幸せだと言っている。今日は青空だと言っている。それだけで十分だ。実際の空模様なんてどうでもいい。世界が明るかろうが暗かろうがどうでもいい。ただ、彼女が青空だと思っていれば、僕は満足だった。
 彼女が幸せだと言っただけで、僕はあの日の喫茶店で感じた以上に幸せになれる。なんだ、こんなものか。僕は、自分の予想外の単純さに、ひとり苦笑した。

 

11.

 僕らはしばらくそうしたあと、何事もなかったかのように立ち上がり、彼女の家まで再び下らない話をしながら歩いた。彼女はさっきの出来事について、何とも思っていないようだ。でもまあ、それで良い。僕はひとりで納得する。
「わー、久しぶりの我が家だ!」 
 あっという間に、僕らは彼女の家に着いてしまった。彼女はててっと二三歩前に出ると、くるりとこちらを向く。
「鈴木くん、今日はありがとね。わざわざ迎えに来てくれて」
「いや、良いんだよ。好きで来たんだし」
 僕は頬を掻く。そして少しだけ勇気を出して、言葉を続けた。
「あ、あのさ、日高さんっ」
「え?」
「あの、えっと、ひとつだけその、日高さんにお願いしたいことがあるんだけど」
 言ってしまった。もう後には引き返せない。それを聞いた彼女は、くすくすと笑った。
「なんか今日の鈴木くん、ちょっとヘンだね。何かあったの?」
「いや、何かあったってわけじゃないけど……」
「そっか。まあそれは別にいいけど。それで、お願いって何?」
 僕は喉をごくりと鳴らしてから、言った。
「日高さん、こうして僕と別れる時、いつも僕のほうを見ずに手帳を見てるでしょ?」
「え、そうだったかなあ」
 彼女は頬に手を添える。
「そうなんだよ。いつも手帳で次の予定を確認してるんだと思うんだけどさ。さよならする時に、こっちを見てくれないのが寂しいんだ。だから、あの、別れる時は、目を見てお別れしてくれませんか?」
 なんて、なんて情けなくて、なんて小さなお願いだ。自分で言っていて恥ずかしくなる。しかしそれでいて、僕の中では重要な問題であることを、僕は認めなければいけない。
 そんな僕の小さな小さな願いを聞いた彼女は、からからと笑った。
「あはは、鈴木くん、そんな風に思ってたんだね。全然知らなかった。でも、そっか、そうだね」
 彼女は笑顔を引っ込め、真面目な顔をする。
「鈴木くんが寂しいんだったら、それは大問題だね。今までごめんなさい。これからは、気をつけるね」
 僕は急激に、目頭が熱くなるのを感じた。なんだこれ。なんでこんなことで。自分が情けない。僕は必死に涙をこらえる。
「僕の方こそ……ごめん、変なこと言って。それ以外にも、ほんと、色々、ごめんなさい」
「いえいえ。むしろ、言ってくれてありがたいよ。私、鈍感だから気付かないんだ、そういうの」
 そう言うと、彼女は僕に近づき、両手を取り、笑う。
「じゃあ、またね、鈴木くん」
「うん、じゃあ、また……」
 また今度。泣き虫な僕の気持ちは、嗚咽に押されて最後まで言葉にならない。
 情けない。今は情けない僕だけど、いつかはちゃんと。
 彼女の青空を護る存在になろう。
 僕はそう誓った。                                    <了>



 

 

 さて、この物語はフィクションです。

 ですので、私は田舎住まいの男子浪人生ではないし、おそらくあなたもN大医学部一年の女子大生ではないでしょう。
 しかしだからと言って、全てが嘘っぱちという訳ではありません。
 これが、私があなたに向けて書いた小説であること。
 それだけは真実です。
 その事だけは、どうか理解していただけるよう、よろしくお願いします。

 さて、私はこの手紙を書いてしまいました。
 私は卑怯者でしょうか。
 私は憶病者でしょうか。
 私は愚か者でしょうか。
 私は人非人でしょうか。
 私は不適合者でしょうか。
 おそらく、そのどれもが正しい指摘だと思います。
 軽蔑しないでくれ、なんてそんな虫の良いことは言いません。
 ただ、私がこの手紙を書いたこと、それだけは覚えていて欲しいと、切に願います。

 最後までお読みくださって、本当にありがとうございました。







<了>

 

 

 

 


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